小説 「時の朱色」 第1回 夏の終わり

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その一角だけがまるで南国の華やいだ長閑さの中にあるかに見えた。薄桃色のハイビスカスが夏の陽を離さずにいるかのよう。太陽はまだ色褪せず黄金色に輝いている。駅までのほんの五分程の道にある一軒家。その門の横に咲くハイビスカスを見て過ぎるのが夏の朝の日課になっている。週末の昼間に通り過ぎると時々ピアノの音がする。

駅前のパン屋で大きな丸いドイツパンを買い, 来た道を戻る途中ハイビスカスの花の前でふと足を止めた。ピアノの音は止んでいなかった。誰が弾いているのかは知らないが、それは確かにショパンの曲であった。ぼんやりと懐かしさが込み上げて来る。大学時代、九月生まれの恋人がいた。ピアノが上手くショパンの曲をよく弾いていた。自由で平等で賢い女性だった。彼女が生まれた日の空気はきっとこんな感じだったに違いない。ほんの数秒の間にそんなことを考えた。夏の終わり。煌めく光は僅かに遠くて。凪となった生ぬるい風は美しい揺らめきを西の空に漂わせる。肌を過ぎるその凪が九月の人を作るのだろうか。フレデリック・ショパン、彼もまた年上の女性を愛した男だった。

都立図書館を後にしたのは午後四時を回った所だった。有栖川公園を抜けてドイツ大使館の前に出た。道沿いに続く塀には月替わりの壁画が描かれている。今年は日独交流百五十周年らしい。壁画は百五十年前の江戸の絵だ。知っている場所が何か所かある。池上本門寺、神田大明神、不忍池。緑に溢れたそれらの場所はまるで異国の様にも見える。ショパンの生涯を知りたいと思い立ったのは遅い朝食を食べている最中だった。先週、あの家のショパンを弾くピアノの音を聴いてから、何となくショパンという存在が頭の中から離れなかったのである。暇潰しにパソコン画面に〝ショパン〟と打ち込むと、ショパンの生涯がちょうど今の自分の年齢と同じだと知ったのだ。そんな偶然がショパンへの興味へと変わった。そして、電車で一時間もかけてわざわざこの図書館へとやって来たというわけだ。予定の無い土曜としては素晴らしい過ごし方ではないか。勿論、負け惜しみだ。そして思った通り、ショパンについての蔵書は山ほどあった。少なからず本屋で探すよりは多くの書籍があり、検索コーナーのパソコンで確認しただけでもどれを読んだらよいのか分からなくなる程の数だ。凄い奴だ、ショパン。僕はこれと思う一冊を選び、カウンターでそれを受け取ると窓際の席に座りとても真面目な気持ちで文字を追い始めた。しかし、読破するにはあまりにも遅読だったのだ。土曜の午後を過ごしても、その生涯を読み切る事は出来ず、少しの無力さを感じながら僕は図書館を後にした。それにしても。何と言う生涯だろう。救い出す事の出来ない幾つもの別れは薄茶色に染まった紙の上で夥しい数の文字になり、それはまるで寂しさと悲しみの風の旅物語が来る日も来る日も繰り返されているかのようだった。言うまでもないが。ショパンの曲は彼の人生そのものなのだ。青空の下にいる自分がなんだかあの空の色の様な存在に思える。風景はとても平和だ。マクドナルドのオープンデッキの前を通り過ぎると瞬く間に現実の世界が広がっている事にある種の衝撃を感じた位だ。僕は思考を何処へ向けたらいいのか戸惑いながら歩いていた。少年達は騒ぎながら道を歩いていた。地下鉄広尾駅へとぼんやりと階段を下りながら、あっ、と思ったのは幸運だったかも知れない。頼子から送られて来た案内状があったのだ。確か今日迄だ。すっかり忘れていた。僕は銀座へと向かう事にした。気持ちは少しだけ浮き立った。頼子の個展は銀座五丁目の小さな雑居ビルの一階で行われていた。まだ間に合う筈だ。頼子は高校時代の同級生だった。高校時代、僕も頼子も美術を選択するクラスにいた。僕達はまだ傷の無い美しい磁器の様な学生だった。頼子が描く絵を僕は今でも思い出す事が出来る。まるで生き物の様に躍動する絵だった。僕はよく頼子の絵に嫉妬した。頼子には天性の絵の才能があったからだ。だから頼子が美大に進んだ事も当然の事だった。高校を卒業するその日、僕は頼子に一枚の絵をもらった。美術の時間に描いた一枚のその絵を今でも僕は時々眺める事がある。頼子の自画像だ。あの時代は僕達の美しい時代だった。卒業から十年以上が過ぎたある日、僕達は世田谷美術館でばったりと再会したのだ。最初に気付いて声をかけたのは僕だった。頼子は変わっていなかった。大きなターコイズブルーの胸のペンダントだけが以前の頼子とは少し違った印象に見せてはいたが。頼子とは再会すべくして再会したのだろうと思った。社会人になってからも頼子の事を忘れる事はなかった。頼子は僕の心の中から消える事はなかったのだ。美術のクラスには他にも仲のいい友達はいたが、そんな中で頼子は特別な存在だった。僕はこの話を自分の中だけでまとまりよい一つのストーリーにしてしまうつもりは無かった。だから僕の事を本当に理解してくれている友人二人だけに話してみた。一人は受話器の向こう側で静かに頷き、

「この世を動かしている本当の世界に人間は気付くべきなんだ。人間は自分の肉体と自分自身の目が見ている世界しか分かろうとしない。例えばこの世に人間の目には見えない複雑な糸の様なものが張り巡らされているとしたら、仮に僕がそれを見つけたとしたら、僕は櫂だけにはその事をそっと教えると思うよ。例えば、一人の人間は何本もの糸で何人もの人と繋がっていて、この世を覆う様に這っているその糸が他の糸と交差する所で誰かと出会う事になってる。要するに、絡み合う糸を解きほぐしながら人は前に進んで行くようになってる、とでも言ったらいいかな。何が言いたいかって言うと、櫂の糸の交差点の一つに頼子さんがいたって事だよ」

と、言った。そして、もう一人は、

「願いは叶うって事だよ。て言うか、櫂ちゃんが、二人が再会するって事を知ってたんじゃないの。櫂ちゃんの人生とその頼子さんとの人生は元々繋がってたのよ。頼子さんの人生には階ちゃんが必要で、櫂ちゃんの人生には頼子さんが必要だったって事」

と、言った。

第2回へつづく

 

「時の朱色」第2回はこちら↓ ©

http://iris-wildrose.com/novel-when-it-is-vermilion-take2

< この小説はフィクションです >

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