小説「時の朱色」第10回 プロじゃありません

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キッチンでは佐野久美子が作業を続けていた。買ってきたタルトは十個あり、森潤子はタルトを一緒に食べないかと佐野久美子を誘ったのだ。じゃあ、と言った佐野久美子の顔はそれ程嬉しそうでも無かったが、それでも僕の顔をもう一度確認するようにちらと見ると社交的な笑みを浮かべて椅子から腰を上げた。僕達はリビングに集まった。

「中村さんね、週末暫くの間いらっしゃることになったの。よろしくね。今日は明子さんには会えないけど」

森潤子がそう伝えると、佐野久美子はフォークを口に入れたまま眉を引き上げて首を縦に振った。明子とは佐野久美子の母親のことだった。何でも、自分で会社を持っていてカーテンを売っているのだとか。土日も仕事の事が多いらしい。そのため、僕の事は後で伝えてもらうことになった。

「顔を合わせることもあるかと思いますのでよろしくお願いします」

と、僕は挨拶をした。

「暫くって、どの位?」

と、佐野久美子は表情を変えずに口を開いた。

「どの位だろうな。多分、一か月位かな」

と、僕が答えると、その瞳は驚いた様に一瞬見開き、閉じた唇は僅かに歪んでタルトが入った頬だけがゆっくりと動いた。

「天気にもよると思うけど、まあ、この季節ならそれ程悪くないと思うから順調に行けば年末までには完成出来るかなと思ってるんだ。久しぶりの絵だからちょっと時間がかかるかも知れない」

「久しぶりって?」

「筆を持つのは五年ぶり位かな」

「へえ」

と、少しだけ身を引く様な素振りをした佐野久美子は、何故かそれから堰を切った様に喋り出した。

「プロじゃないの?」

「プロじゃない」

「じゃ、どうしてここに?」

「私が裏庭の絵を描いてもらいたいと思っていた画家の方のお友達なの。偶然お会いして。

絵を描かれるっていうことでお願いすることにしたの」

森潤子が僕の事をどれだけ知っているかと言えば、僕が頼子の友人だという事と勤め先と絵を描く、という事位だ。僕は、佐野久美子に説明出来る具体的な理由を考えたが、言葉にするとそれはなんだかこの場にはふさわしくないものの様な気がして、敢えて何も言わなかった。

「でも、美大でしょ?」

そんな当然の様に答えを求める佐野久美子は一体僕をどんな風に見ているのか。その表情は、美大という答えだけを待っている。

「いや、国立の経済」

と、僕は、答えた。

「へえ、じゃ、絵は何処で?」

何だか面倒だと思った。答える事が面倒な訳ではなく、佐野久美子のまるで獲物を得た様なその視線が、そして意外な程に威勢のいいその口ぶりが僕の何かに作用するのだった。

「高校で美術部で、その後は我流で」

「我流って、凄い。実はって言うか、私も絵を習った事があって。子供の頃なんだけど。

今はもう駄目。あの画面いっぱいを塗り尽くすなんてもう無理。疲れる。だからもう塗り絵でいいの」

佐野久美子は語調を強めた。そして、鼻で苦笑すると両肩の力を抜いて背中を丸くした。

「でも、久美ちゃんの塗り絵って凄いじゃない」

「そうお?」

「自作なのよね」

「まあ、一応。暇潰しって言うか、依頼してくる人もいるし」

「明子さん?」

「そう。あの人、自分でデザインしないで人にやらせるから」

「デザインってね、カーテンの柄のデザインなの。明子さん、オリジナルのカーテン出してるから」

「へえ、凄いね」

僕は、心からそう言ったのだった。

「めんどくさいことは人にやらせるっていう。

それで売れないと人のせいにするんだから」

と、佐野久美子は首を少し曲げて口調を早めた。何やら事情は単純ではないらしい。

「でも、明子さんて強いわよね。何があっても負けない人って感じ」

そんな森潤子の言葉に僕は勝手に佐野明子を想像し始めていた。

「あげる」

と、佐野久美子は明るい表情で言い放った。

「久美ちゃんを頼ってるのよ」

「私なんか頼らなくてもいいんだけど。違うの。あの人、結局自分が楽出来る方法しか選ばないのよ。私がやる事がどんどん増える」

「そうなの?」

「だって、掃除も洗濯もアイロンがけも全部私。夕食だって献立渡されて、これ作っておいてって。私は家政婦かって」

「主婦になりたい女子大生、今多いみたいですよ。それって人によっては憧れじゃないですか」

と、僕は、言った。

「こう見えても忙しいんですけど。そう言えば、潤ちゃんの仕事は?見つかったの?」

佐野久美子の口調は一層激しくなった。気のせいでは無くその表情も最初に受けた印象とはまるで違うものに変わっていた。もしかすると僕はあと一時間はここでこうして座っていなければならないのかも知れない。想像すると、それは容易に有り得ることだった。だが僕は、女性二人の他愛ないお喋りを聴く為にここに来たわけではなく、

「潤子さん、そろそろ僕はこの辺で」

と、勇気ある一言を言ったのだった。だが、森潤子は驚いた顔をして僕を制すと、

「待って。今日はこれからなの」

と、言って僕を引き止めた。

「早めの夕食を作るから召し上がっていって。ぜひ食べて行っていただきたいものがあるの」

森潤子が何か力を込める様に僕に向かってそう言うと、

「もしかして、あれ?」

と、佐野久美子が頭を傾けてにやりと笑ったのは僕の視界の中の出来事で、僕としてはあまり気分の良いものではなかったが、森潤子が真面目な顔で頷いたので、辛うじて傍観していられたのだ。

「案内するわ」

森潤子は、僕についてくるようにと言った。そして案内されたのは先程の裏庭だった。

「見て」

森潤子の喜々とした声だ。黒々とした土の表面から少しだけ姿を現しているのは大根だろうか。白く艶やかな曲線が緑の葉の下に鎮座している。

「初めての収穫なの。これね、初めて有機栽培で化学肥料を一切使わずに作ったの。大事に大事に育てて。だから嬉しくって」

こんな声、久しぶりに聞いたと思った。森潤子の顔はこんな顔だったのかと思った。僕は、自分の頭の中で一瞬鮮やかな光がスパークするのを感じた。熱いものがじわりと体を包み込んだ。そんな森潤子を眺めていると、森潤子は土の中から一つを優しく引き抜いて僕に見せた。

「どう?」

土の香りが鼻先にさっと走り、森潤子が掲げた右手には大根ではなく拳ほどのカブがあった。

「へえ、よく育ってる」

と、僕は、言った。

「でしょう。これ、絶対に食べていくべきだから。て言うか、どうしても食べてみてほしいの。ね、」

森潤子の明るいその声には断る理由を見つけることが出来なかった。結局、僕は森潤子の笑顔に負けてしまった。森潤子は、キッチンから持って来たカゴに一つ一つ優しく引き抜いたカブを入れて行くと、まるでテレビのコマーシャルの様に僕に向かって微笑んだ。それからついでに僕に家の中を簡単に説明してくれた。玄関の前の廊下を進むとその先に浴室とトイレがあり、トイレの水洗は天井近くのタンクから下がっている鎖を引くと水が流れる仕組みでまるで大正ロマンを思わせる雰囲気だ。トイレでロマンというのもおかしな話だが、窓の曇りガラスや菱形の木枠が洒落た感じなのだ。一階には和室が二部屋あった。その一つが森潤子の部屋で、もう一つが客室用になっていた。一階には他に最初に通されたリビングとキッチン、それに小さなサンルームの様なスペースがあった。古い日本家屋だが手入れが行き届いている清潔さがある。二階はどうやら佐野親子が使用しているらしく僕が知る必要は無い場所だった。

森潤子が夕食を作っている間、僕は裏庭に出ることにした。時刻はまだ四時で、傾いた太陽は徐々にその熱を下げ始めていた。それでもまだ秋の心地良さは十分で、草むらの下からは止むことなく虫の音が聞えて来る。そして、そんな所へ現れたのは佐野久美子だった。

第11回へつづく

第11回はこちら→ http://iris-wildrose.com/novel-when-it-is-vermilion-take11 ©

< この小説はフィクションです > 登場する人物、設定は実在のものではありません。