小説「時の朱色」第11回 変ですか?

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「中村さん」

佐野久美子は、美川憲一の口調で僕を呼んだ。ちょっと鼻にかかった不満気な声色だ。三メートル程先にいる細く薄い肉体の青白い顔をしたその女性は微笑みながら真っ直ぐに僕に向かって進んでくる。現れたのが森潤子ではなく何故佐野久美子なのか、僕は当惑しながら作り笑顔を浮かべ、その足がそろそろとこちらへ向かってくるのを見ていた。佐野久美子は明らかに僕を目指して来る。そう分かったのは、その眼が風景意外のものを見ていると気付いたからだ。そして僕の真ん前までやって来た佐野久美子は眼を大きく見開いた。

「中村さんに言っておきたいことがあって」

と、佐野久美子は口を最小限に開けてそう言うと、胸の前で両手を組み僕の顔をじっと見た。僕は自分の眼の確かさを心の中で納得しながら佐野久美子に笑顔を向けた。

「あの家にはルールがあるって知ってた?」

と、佐野久美子が言う。佐野久美子は、満面の笑顔になりながら美川憲一の口調になる事が出来た。

「いや」

僕は森潤子からそんな事を聞いたことは一度も無かった。

「そうよねえ」

美川憲一の声色は少しだけ高くなり、その目は探る様に僕を見た。なんだか値踏みされているようで僕はちょっとたじろいだが、しかし、何かを言わなければならない様な気がして仕方なく口を開いた。

「何か決まり事があるのなら知っておかないと。もしかしたら潤子さん、僕に遠慮して言ってないのかも知れない。で、ルールっていうのは?」

僕を見ている眼は一瞬も僕から視線を外さず、まるで僕を取り巻く外気に張り付いている様だ。佐野久美子は明るい表情で僕をまんじりと見詰めたまま右手を顎の下に添えその右手のひじに左手を添えて少しだけ首を傾げると、

「中村さんて、ご家族と一緒?」

と、訊いた。

「いや、大学時代から一人暮らしだけど」

と、僕は、答えた。

「やっぱりね」

その声は低く腹の底から出て来た含みのある響きで僕を当惑させるものだった。僕には佐野久美子の言葉の意味が全く理解出来ない。でも佐野久美子は微笑んでいて、微笑んではいるがその眼はしっかりと僕を捕らえている。

「やっぱりって、どういう意味かな?」

と、僕は、言った。

「自由そうだなって思って」

その瞳は硬く光り、口元には何処か差別的な冷笑が滲んでいた。薄い肉体は佐野久美子が笑顔を作ることで一層儚く見えたが、何年も着古しているように見えるカーデガンに隠れた骨ばった肩が佐野久美子を代弁する意思の在り処の様にも見える。

「自由?まあ、自由って言えば自由な身なのかも知れない。けど、それは考え方、捉え方によると思う」

僕は咄嗟にそんな事を言った。

「へえ」

ある種の偏見が込められている声だ。こういう時に言葉を続けるべきだと思ってしまうのは僕の悪い癖なのだ。サービス精神が余計な仕業をさせるのだ。時にその仕業が無意味に虚しい思い出を作り出してしまうという事を僕はもっと自覚しなければならないのに。

「名前が櫂だからね。自分では自分の人生っていう船を自由に漕ぐ為の名前だと思ってるんだ」

「あの、そんな事はどうでもいいんだけど、それより、その服は止めた方がいいと思って」

佐野久美子の言葉に躊躇いは無い。

「え?」

僕は、ちょっと面喰った。そら見ろ、と思った。予感は正しかった。予感を裏切ったのは自分自身なのだからこうなっても仕方無い。僕は、自分が言った事に僅かに後悔したが佐野久美子はそんな事等気にも留めない様子で言葉を続けた。

「余計なお世話かも知れないけど」

と、佐野久美子は「ど」に力を込めて言い放ち僕の顔から眼を離さない。微笑みながらだ。

「これ、結構気に入ってるんだけどな」

と、僕は言った。着ているリネンの白いシャツは去年旅先のミュンスターで買ったものだ。

サイズが調度いい。ジーンズは持っている中で一番清潔感のある薄いブルーのものを選んで来た。

「それって、」

佐野久美子は息と笑いを同時に吐き出した。丸く見開いた眼にはフライングしそうな次の言葉が飛び出す合図を待ち構えている。

「これじゃ駄目だったかな」

と、僕は、言った。佐野久美子は微かに息を吸い込むと僕の顔を見入りながら、

「初めての家に来るのにジーンズなんて有り得ない」

と、首を僅かに左右に振りながら強い口調で言うのだった。僕に対するその判決は何時間前に下されていたのだろう。視界の遠い先で太陽が輝く柿色に変わりずりずりと空を下って行く。

「しかも、女性の家に来るのに」

そう言う佐野久美子の眉毛が上に一センチも動いた。キッチンで見た佐野久美子はまるで借りて来た猫の様におとなしそうに見えたがあれは嵐の前の静けさだったのだろうか。それとも、僕が寝た子を起こしてしまったのか。佐野久美子の話し方にはある種の特徴があった。興奮してくると言葉の終わりを上げるのだ。もう一つの特徴は、何を話す時にもその顔はその口が何を言っていようが笑顔になるのだった。僕は佐野久美子の眉間の部分のファンデーションが剥げている事にも気付いたが視線をその部分に向けるのも今は憚られる気がして佐野久美子の今はぎらぎらしているその見開いた眼だけを見るようにして黙っていた。今は兎に角僕の着こなしについてだけを口にした方がよさそうだ。

「ジーンズじゃいけなかったかな?」

と、僕は、言った。

「礼儀としてはあ」

佐野久美子の口調は突然スローになった。僕に笑いかけているその顔は形状記憶式なのだろうか。

「今日は、あの人がいなかったからよかったけど」

「あの人って、お母さんの明子さんのこと?」

「そう。こういう事に厳しいから、あの人」

佐野久美子は自分の母親を“あの人〟と呼んだ。そういう事か。佐野久美子の事情が少しだけ分かりかけて僕は頭の中の混乱を取り敢えず一時停止させたのだった。そういう関係を否定するつもりは無いし、干渉するつもりも無かった。

「仕事柄かな」

と、僕は、社交辞令のつもりで言った。

「あの人、この家の問題児なの」

「問題児?」

「そう。問題児」

佐野久美子は眼を剥き出して言葉を強調した。

「だからあ、私は中村さんの為に言ってあげてるの」

「そう」

僕は、苦笑しながらファンデーションの禿げた佐野久美子の顔を見た。

「でも、中村さんて、何か変」

と、佐野久美子は再び美川憲一の口調になり、僕に二度目の判決を下そうとしていた。

「変か。困ったな。何が変なのかな」

と、僕は、言った。もうここから去りたいと思った。

「中村さんの常識って何?この家に男がいないって知ってたんでしょ。しかも今日は若い女が二人だけだってのに。そういうとこにやって来るって、非常識。なんか、中村さんて変。信じられない、中村さんみたいな人」

佐野久美子は言葉を吐き捨てた。歌舞伎役者が狂った役を演じている様な口ぶりである。鳥の声が響いた。僕の思考は、止まりかけていた。

 

第12回へつづく ©

< この小説はフィクションです > 登場する人物、設定は実在のものではありません。