小説 「時の朱色」 第5回 画集

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森潤子がウォーターハウスの絵が見たいと言うので僕達は再び三階へと向かった。閉館時刻までまだ時間がある。僕は、森潤子をその場所へ案内し、つい先程棚に戻した画集を取り出した。窓際の椅子にはもう誰も座っておらず、僕達はその場所を優雅に使う事が出来た。

「写真は事実だから納得させられちゃうけど絵は、想像が広がるって言うか。写真って瞬間だけど、絵は永遠じゃない?永遠を閉じ込めた世界」

森潤子は、夢を語る様な眼差しでそんな事を言った。

「ウォーターハウスの絵で一番好きな絵は何?」

と、僕は、訊いた。

「この中にあるかしら」

「探してみて」

大きな画集を手にすると、森潤子は膝の上でゆっくりとページを捲った。マニキュアを塗っていない指先は桜貝の様に淡い血色を放っている。

「見事ね」

「本物を見に行きたいな」

「ほんと」

「でも、こうして画集を見ていると、絵を一人占めしてる気分」

「独占欲が強い?」

「さあ。でも、もしかすると、かも」

森潤子は、僕の顔を見て笑い出したかと思うと、ふと考える表情をして目線を逸らした。

「ウォーターハウスの絵って男と女と自由と憂鬱って感じね」

「え?」

「人生の時間を潰すには、憂鬱という選択があるって教えられているみたい。ウォーターハウスの絵」

「なるほど。美しい憂鬱は芸術になるってことか」

と、僕は言った。森潤子は数秒黙り込み、

「芸術とは、自由な憂鬱である」

そんな事を芝居じみた口調で言う。なんだか僕は可笑しくなった。森潤子は真面目な顔をして僕の顔を見た。僕は何かを言わざるを得なかった。

「憂鬱とは、静かなる心の叫びである」

と、僕は、つられるように芝居じみてみた。

「叫びを聞きたまえ」

と、森潤子が芝居がかった言い方を止めないので僕はちょっと戸惑ったのだが、金曜の夜のためだろう、想像していた森潤子のイメージが壊れかけていることに寛容な気分になれたのだ。

「そして、再び自由を得たまえ」

と、僕は芝居じみた口調で続けた。

「まるで祈りね」

と、森潤子は静かに言った。普通の言い方だ。森潤子はちょっとしたエンターテイナーの素質があると思った。

「ああ。芸術ってのはつまり、祈りなのかも知れない。魂を込めるものは、祈りになる」

と、僕は、言った。

「中村さんは、お祈りしたりする?」

「しない」

「そう」

「するの?」

「時々」

「どんな?」

「秘密」

「ま、祈りだからな。内緒にしないとダメか」

「そう」

「祈りの絵ってあったかな」

と、僕は独り言の様に言った。

「中村さんの好きな絵は?」

「難しいけど、強いて言えば」

森潤子の膝の上の画集を横から片手でめくると、森潤子がそれに応える様にページを次のページへと送り、僕達は数回それを繰り返した。

「これかな。一番は」

と、僕は、見つけたそのページを見て言った。

「ヒュラスとニンフたちね。綺麗な絵よね。綺麗で、ちょっと怖い。棘じゃなくて、気付かない麻薬の様な」

「なるほど」

「私の好きな絵は嵐のシーン。嵐の海で男性が女性を救っているの。残念ながらこの画集には入っていないみたい」

「探しに行こうか?」

「何処へ?」

「図書館の梯子。それか本屋。って言いたいところだけど、時間が無いな」

「中村さんてロマンティスト?絵を探しに梯子って」

「そう。ロマンティスト。そして、傷付きやすい」

「だから時々絵の中に逃げ込みたくなる?」

「逃げ込みたいね。逃げ込んで、その中でぶっ倒れたい」

森潤子は何も言わずに僕を見たが、その瞳が少しだけ笑っているので僕はちょっとだけ安心して言葉を続けた。

「ま、それぞれ願望を絵に託してるって事か。否定出来ない。でしょ」

「可笑しい。中村さん、真面目に見えるのに」

「何?」

「女好き」

「普通に好きなだけさ」

「聞いていいのかしら?」

「何?」

「ご結婚は?」

「していない」

「大変」

「何が?」

「中村さんとお付き合いする人」

「どうして?」

「なんとなく」

「なんとなくじゃ分からない」

「中村さんの願望は純粋なエロティシズム。そして、中村さん自身が純粋である事が一番の問題」

「え?」

森潤子は、また画集のページをゆっくりと捲った。

「僕は、純粋なんかじゃないよ」

「そう?」

「でもまあ、純粋じゃないけど、それ程悪でもない」

「大丈夫。悪には見えない」

「あ、危ないな。森さん、騙されやすいでしょう。直ぐに人を信じちゃダメ」

「ほんと、中村さんて面白いのね」

「金にならない面白さ」

「お支払いいたしましょうか?」

「ほんとに?」

「ジョークです」

「残念」

「ほんと、残念」

「何か、実感こもってるな」

「気に障ったかしら?」

「いや」

「じゃ、お金の代わりにこれをどうぞ」

森潤子がバッグの中から取り出して僕に手渡したのは小さなカードだった。

「試作品ですけど」

と、森潤子は、言った。名刺大のカードには、

しあわせ切符、と書いてある。

「試作品?」

「暇潰しに作って捨てるの忘れてた。楽しい事やいい事があったらそれにメモして取っておこうかな、なんて思ったんだけど。十枚たまったら美味しいものを食べに行こうかな、なんて。花より団子」

「面白いね」

「でも、ほんとに人生のチケット、なんてあるといいと思う」

「どんな?」

「どんなって。難しいけど。例えば、この世に生まれたら、誰もが平等にチケットを与えられるとか。人生で使えるチケット。贅沢をせずに暮らせる位の一生分のチケットをね。勿論働かなきゃならないけど、そのチケットを上手に使っていけば誰もが最低限に暮らしていけるの。贅沢をしたい人は贅沢する分だけ余分に働けばいいのよ。チケットをさっさと使っちゃう人は使ってしまった分だけ先のものが無くなるからやっぱりその分働かなきゃならない。そんなチケットがあればいいじゃない?」

「なるほど。人生のチケットか」

「誰が出すのかは思いつかないけど」

「なんだかローンの返済みたいだな」

「そう?」

「先にもらって後で返す」

「ま、簡単に言えば。でも、って言うか、時々思うんだけど、お金が無くなる時代って来るのかしら?世界は変わって、人類はもっと穏やかに生きて。何か、今とは全く違う価値が生まれて」

森潤子は、まだ何か言い足りないと言わんばかりに視線の先で何かを見詰めている、そんな表情をした。

「新しい価値観ね」

「何かは分からないけど。でも、今の私達の社会よりはずっとましな何か」

「面白いね、想像すると」

「知的世界って言うか、何て言ったらいいのかしら。そう、もっと引き算の世界」

「引き算?」

「そう」

「例えば?この東京を白い世界にするとする。壁も屋根も看板も、電車の色もバスの色もみんな白。一つだけ許される色がある。それは赤。その赤はドアの色だけに許される。なんてのか?。分かってる。森さんが言いたいのは、もっとメンタルな世界の事でしょ」

「多分」

「そう、そして、多分、僕達は腹が減ってる」

「正解」

「そろそろ退館か」

「また会えるかしら」

「食事を一緒にとも思ったんだけど」

「ありがとうございます。でも、帰らなきゃ」

「そう。じゃあ、またの機会に」

「よかった」

「ちょっと待って」

鞄の中から名刺入れを取り出すと、僕はその一枚に電話番号とメールアドレスを書き添えた。僕はそれを森潤子に手渡した。

「あ、ひとつ訊いてもいいかな」

ふいに思い出したそれを僕は訊かない訳にはいかなかった。

「頼子の個展の時、絵を描いて欲しいって言ってた」

森潤子は、え?と声を出して一瞬目を見開いた。

「ああ、あの時の」

「そう。あの時の」

「突然、あんな事言っちゃって。速見さん、何て思ったかしら」

「何とも思ってないよ」

「良かった」

「あの後、頼子とちょっと話したんだ。森さんの事、」

「変なヤツだって言ってた」

「綺麗な人だって、言ってた。頼子が」

森潤子は、ちょっと嬉しそうに肩をすくめておかしな表情をした。

「で、描いて欲しい絵って、どんな絵なのかと思って」

「あれは、うちの裏庭の絵を。庭の絵を描いていただきたくて」

「何か事情がある?」

「まあ、事情と言うか、ちょっとだけ」

「とりあえず、ここを出ようか」

僕達は図書館を出ると外灯で照らされた道を地下鉄の駅へと歩いた。

 

第6回へとつづく ©

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