小説 「時の朱色」 第6回 ミノタウロス

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オレンジ色に灯る窓辺の明りが夜道に滲んでいた。都会のど真ん中だというのに人の姿も車の往来も無い静かな道である。ドイツ大使館の外壁沿いの坂をゆっくりと下りながら、森潤子はのんびりとした口調で僕の質問に答えた。

「うちには裏庭があって、結構いろんな花が咲いているの。小さい頃は従弟達とよく遊んだ庭で。そこがもしかしたら来年の今頃にはもう無くなっているかも知れなくって。で、無くなってしまう前に絵にすることが出来たらと思って」

「無くなるって?」

「家の土地と裏庭の土地とは所有者が違うの。家は今は父のものだけど、庭は借りている土地で祖父の代からのものなんだけど、そろそろ返そうかって話があって。もしそうなると、なんだか色々な思い出も遠ざかってしまうような気がして。でも、私のものじゃないからやっぱり諦めなきゃならなくって」

「なるほど」

「家は元々祖父母の家だったんだけど、今は私が住んでいるの。変わっちゃうって寂しいわよね。家はそのままだから生活がどうこうって訳じゃないんだけど、風景が変わってしまうってとても寂しいでしょう」

「まあ、そうだろうな。東京はそういう点では激しいとこだから諦めって言うか、またかって気がするけど、そういう事情だとまたちょっと違うって言うか、変化を起こす側になるわけだからね」

「それにお金が絡むとね」

「いずれは潤子さんのものになるのかな」

「さあ、どうかしら。兄がいるの。今は名古屋に。結婚してて。仕事で転勤が多いから持家はまだ考えてないらしいけど。父が建てた家もあるし、祖父の家もあるし、もしかしたら自分で建てちゃうのかも知れないし。何だか色々ありまして」

「そう」

信号が赤になり、僕達は足を止めた。車は来なかったが、二人とも何となく信号無視もせずに信号が青になるのを待っていた。

「ね、庭を描くってめんどうかしら?ほら、草とか木の枝とか、細かい作業でしょ」

沈黙を破る様に一転明るい声でそんな事を言ったのは森潤子で、僕は一瞬考え込んで信号が青になったのに気付かずにいた。

「青よ」

「ああ。まあ、普通の人間にしてみれば草木を描くなんて面倒かも知れないけど、絵描きにしてみれば自分が描きたいと思うんだから面倒なんかじゃないんじゃないのかな。庭の絵って言うとモネが有名だけど、クリムトやゴッホの様な絵もある。描き方によっては草や枝もそれ程細かく描かれていなかったりする」

「そっか」

「庭って、どんな庭?」

と、僕は、訊いた。

「どんなって言ったらいいのかしら。桜の木が三本あって、春になると綺麗よ。その根元には水仙の花が咲くの。マーガレットやスズランも群生して。細い小道があるんだけど、その道沿いに夏にはひまわりが咲いて、秋になると奥にはコスモスやケイトウが咲くの。名前があるの。クノッソスの庭って言うの」

「クノッソス?」

「聞いたことある?」

「あるような無いような」

「無いようなあるような?」

「いや、ちょっと待って」

森潤子は、僕の顔を見ていたずらっぽく笑った。車が一台通り過ぎた。僕は、クノッソス、クノッソス、と何度か繰り返したが、まるで何も思い当たらない。

「タイムオーバー」

森潤子が急かす様に僕に笑いかけた。

「早いな。もうオーバー?」

「駅までもうちょっとだから」

「ああ、そうか」

「クノッソスってギリシャの遺跡の名前なの。もういつだったか忘れちゃったけど、庭に名前があったらいいなと思って何となく考えていたら突然クノッソスって頭に浮かんで。ただ浮かんだっていうか閃いたっていうか。それでクノッソスの庭って名前にしたんだけど、後になって何となく気になって調べてみたら、クノッソスって遺跡がギリシャにあるって分かって。びっくりしちゃった。だって、閃いた言葉が実際にある遺跡の名前だったのよ。普通驚くでしょう。学校で習ったのかしら。でも全く覚えていないの」

「もしかして、そういう体質?」

「そういう?」

「キャッチしちゃう。何処かと繋がっちゃうような。或いは、古代の記憶が蘇った。前世はそこで暮らしていたとか」

「まさか。でも、だとしてもよ、当時の人達がクノッソスって言葉を使っていたかは不明だからそれはきっと無しだと思うわ。それより、その遺跡っていうのが凄いの。びっくりよ」

「大きい?」

「相当よ。クレタ島にあるんだけど、今のヨーロッパ文明よりも古くって、確か紀元前二千年位のものだったかしら。でも、悲しい神話があるの」

「ゼウスとか出てくるのかな」

「そう。そうなの。そのゼウス。宮殿の内部は迷宮になっていて、その訳が怖いの。ちょっと忘れちゃったけど、ミノ、えっと、何だったかしら、ミノン、ミノタン、ミノ何とか、」

「ミノタウロス」

「そう、そんな名前だったと思う」

僕は、スマホで検索したページを見せた。

「ミノタウロス。ゼウス神と人間の王女エウロペの間に生まれたミノス王がポセイドンに牡牛を捧げるという約束を破ったが故に、ポセイドンが怒ってミノス王の后に呪いをかけた。牛に恋をした后が生んだ子が牛の顔を持つミノタウロス。人を食べるという狂暴なミノタウロスを閉じ込める為に王は宮殿の奥にある迷宮にミノタウロスを閉じ込めた」

「そう、それ。文明の利器に感謝ね。今の時代に生きている私達って想像力を失っていくんじゃないかって時々怖くなるけど、そのミノタウロスなの。ミノタウロスを産んだお后に同情しちゃう。約束を破ったのはミノス王なのに」

「恐ろしい約束だね。それは約束じゃなくて契約だな。約束って漢字で書くと約、だからね。ま、約束なんてしなければしない方が賢明だけどさ。でもまあ神話だとしてもだ、ポセイドンの様なヤツの怒りは買いたくないね」

「もしかして中村さん、独身主義?結婚って一種の約束でしょう?」

「結婚もそのうちに期間限定の契約事になったりするんじゃないかって思うよ。こんなに離婚が多いのにいまだにみんな結婚したがってるってどういう事なんだろうな。現代は優しいポセイドンでいっぱいってことかな」

「優しいポセイドン?それを言うなら、諦めのポセイドンじゃない?結婚ってチャレンジだと思う。チャレンジが出来なくなった時に結婚て終わるんだと思う。なんてね」

そう言って森潤子は肩をすくめて笑ったが、何かを想像するように道の先を眺めた。地下鉄への階段を下りると、上って来る人達をよける為に僕は森潤子の前を歩いた。早く言わなければと思いながらキャンバスに咲いた花や木々が頭の中で色付き始めている。人の波が去ると、森潤子は階段を二、三段駆け下りて僕の横に並び、

「楽しかった。おしゃべり」

と、言った。森潤子の笑顔が僕の目に飛び込んで来たようにそれは鮮やかだった。

「ね、もしも僕で良ければ、その庭の絵、僕に描かせてもらえないかな」

僕は、咄嗟に少し早口でそう言っていた。少しだけ高揚していた。森潤子の驚いた表情を見て、まるで愛を告白してしまったかの様な気分になった。狭い地下鉄の通路を進む足は今ここで立ち止まってもう一度もっと落ち着いてゆっくりと言い直す為に今来た道を十メートル程後戻りしたい気持ちになった。そして森潤子の反応と言えば、何かを言う為に言葉を選んでいる感じだったが、直ぐに笑顔を作ると二、三度瞬きをしてまた笑顔を見せるだけだった。

「勿論、僕の絵を見たことがないんだから答えようが無いと思う。何だったら以前に描いた絵を見てもらって、それでもしよければ、ってことで」

森潤子は、少しの間を置いて、

「そうね」

と、言った。

 

第7回へつづく ©

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< この小説はフィクションです >