小説「時の朱色」 第7回 恵比寿にて

* 「時の朱色」第一回はこちら↓

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森潤子からメールが来たのは、それから二週間程経ってからだった。僕の絵を見たいので何処かで会えないかという内容だった。勿論僕が絵を持参して行くことになる。森潤子は横浜に住んでいて最寄駅はJR横浜駅なのだと言う。僕は、互いの中間地点である恵比寿で会うのはどうかと提案した。

そして、その三日後の土曜、僕達は恵比寿駅近くの喫茶店で待ち合わせた。午後三時。どうやら僕の方が先に到着したらしく、僕は奥のテーブルを確保して森潤子の姿が見えるのを待っていた。僕は、ふと思った。もしも僕の絵を気に入ってくれなかったら。その時は仕方がない。けれどもその結果、森潤子と会うのはもうこれで終わりになるのかも知れない。そんな事を考えた。そう思うと何となく寂しくなった。僕の絵はちょっと荒いタッチで、かなり良く言えば宮本三郎風と言ったらいいだろうか。勿論、宮本三郎の様な凄い絵は描けないのだが、色調としては似たタイプになるのではないかと思っている。女性が好きな絵というのは、もっと華奢でエレガントなラインと色調ではないかと思うのだ。僕の絵を見た瞬間の森潤子の表情を見るのが何となく恐い気がした。それで全て分かってしまうからだ。三時まであと十分あった。僕は、風呂敷に包んだキャンバスを隣の椅子の背もたれに立てかけてぼんやりと店内を眺めた。壁に飾られている花の絵が目に入った。絵画とはいったい何なのだろう。空間を彩る道具、平面上の動かない世界、人の心を引き寄せる何か。そう、何か、である。何か、でなければならないのだ。その「何か」が無ければ絵は平面上のただの色である。自分は「何か」がある庭を描くのだ。森潤子の為に。そう、森潤子の為に。そんな事を考えていると、僕の方へ歩いてくるその姿に気付いた。

「お待たせしちゃってごめんなさい」

と、森潤子は言った。

「ちょうど三時。完璧」

「余裕が無くって」

と、僕と向い合せの席に座ると、森潤子はにっこりと微笑んだ。

「でも、会えてよかった。ここの場所、ちょっと迷っちゃって。地図を読めない女みたい」

「ああ。会えてよかった。こっちは待っている間に素晴らしい事を思い付いた」

「え?どんな?」

「もしも森さんが僕の絵を気に入らなかったら、僕はこの絵を喜んで手放す事にするってね。もらってくれる人がいたらだけど。大した価値が無いって事は分かってる。でも、何となく惜しくてね。きっかけがないとそういう決心って付かない。今日がいいきっかけだと思ったんだ。子離れしないと」

「子離れ?」

「作品って、自分の子供と同じなんだ」

「なるほど」

僕は、手を挙げてウェイトレスを呼んだ。

「何がいい?」

と、僕は、訊いた。森潤子はレモンティを頼み、僕はコーヒーを注文した。

「何だかどきどきしてきた。そこに置いてあるのが中村さんの絵でしょ。私がその絵を気に入ったら子離れしないのよね」

「しないね」

「別に子離れしなくてもいいと思うけど」

「この絵を一生持っていたらどうなると思う?」

「さあ」

「僕は、森潤子という女性を一生覚えていることになるだろうな」

「あ、もしかして、私の事を忘れたい?って事?」

「さあ、どうなるのかな。分からない。この先の事だから」

「中村さんて意地悪?」

「そんな事は無い」

「じゃあ、難しい人?」

「いや、難しくもない」

「そう?」

「男なんて簡単な生き物だからね」

「女とは違う生き物だって事は分かってる」

「じゃ、安心だ」

森潤子は、一瞬表情を止めた。

「まさか、絵って、裸婦?」

と、僕の顔を見たまま裸婦の婦の音のまま唇をとがらせる。思わず笑ってしまったが、言うよりも何よりも絵を見せた方が良いと思い、僕は椅子から風呂敷包みを取り上げるとテーブルの上でゆっくりと結びを解いた。絵は、三十歳の頃に旅先で描いたものだった。くるりと返して森潤子の正面に置くと、その表情はぱっと明るくなった。

「どうかな?」

と、僕は、言った。

「何処かしら、ここ」

「上高地。前に行った事があってね」

森潤子は、じっと絵を眺めた。絵にも相性がある。例えいい絵だとしてもそれがイコール気に入ったという事にはならないものだ。僕は、ちょっと黙っていたが、ウェイトレスがレモンティとコーヒーを運んで来たのでテーブルの風呂敷をさっと片付け、

「ちょっと休憩」

と、言って僅かに漂っていた緊張を解いたつもりになった。自分の膝の上に絵を引っ込めた森潤子は、ウェイトレスがテーブルにカップを置くのを見ていたが、それが済むと同時に口を開いた。

「中村さん、これ、売れるでしょう」

僕は、一瞬カップに掛けた指を止めた。

「そう思う?」

「売れる。私、売ってあげましょうか?」

「いや、そういう問題でもなくって」

「でも、売れたら嬉しいでしょ」

「まあ」

「もったいない」

「そう言ってもらえると光栄だけど」

「上高地、行ってみたいな」

「実際はもっと綺麗だよ。空気も風景ももっとシャープさがある。水が上手い。僕の絵は写実じゃないからちょっと暑苦しい印象を受けるかも知れないけど、サルがいて可愛いし、夏に行くにはもってこいの場所だと思うな」

「へえ」

森潤子は絵をテーブルに戻しカップに指をかけると、それをゆっくりと口に運んだ。僕は、森潤子の気持ちが知りたくてうずうずしていたが、まだ訊くタイミングではないのだ。そう思い自分もコーヒーを口に運び店内のBGMのジャズが心地良いふりをして椅子の背もたれにゆったりと身を預けていた。こんな芝居がかったことをして、まるで自分が動物園のゴリラのように思えるではないか。しかし、一分待っても三分待っても森潤子はこれといった事を言わなかった。僕に絵の依頼をしてくれるのか、それともしたくないのか、その表情からは全く読み取る事が出来ない。もしかしたら、断りたくて、森潤子も実の所気持ちをうずうずさせているのかも知れない。僕は、そんな事を想像しながらカップを皿の上に置くと、森潤子に向かってにっこりと微笑んでみた。

 

第8回へつづく ©

小説「時の朱色」第8回はこちら http://iris-wildrose.com/novel-when-it-is-vermilion-take8

< この小説はフィクションです >