小説 「時の朱色」第8回 秋へ

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「あの、お聞きしたいことがあるんですけど」

と、ちょっと伏し目がちに何かを言おうとして森潤子は僕の顔を見るとレモンティのカップから手を離した。

「とってもいい絵だと思うの」

「ありがとう」

「これだけの絵を描くってどの位の時間がかかるのかしら」

「まあ、趣味で描いたものだから時間なんてかかってないようなもので」

「そんな事はないと思うけど。じゃあ、率直にお聞きします。おいくらで描いていただけるんでしょうか」

森潤子は、神妙な顔をして言った。そんな事を気にしていたのかと僕は逆に申し訳なく思ったが、ちょっと考えてしまった。

「ただって言ったら、変だと思いますか?」

と、僕は、言った。

「え?」

「世の中、ただより高いものは無いっていう」

「まあ、確かに」

「そういう意味合いなら少しだけ支払ってもらった方がいいのかも知れない。その方が安心ってこともある」

「いえ、そういう意味じゃ」

「ま、そういう意味でなくても、お支払いいただいた方が森さんの気持ちが楽ってこともある」

「ええ、まあ」

「じゃ、千円なんてどうかな?」

「千円?」

と、森潤子は変な所から出したような声で言った。

「千円あったら美味いランチが食べられる」

「まあ」

「じゃ、千円」

「ホントに?」

「ホントに」

「本当にいいのなら」

「勿論」

「じゃ、千円でお願いしたいと思います。でも本当にいいのかしら」

「何だったら誓約書を書きましょうか」

「分かりました。では、千円で」

森潤子の笑顔を見て、僕は自分が飲んでいるのがコーヒーだということをやっと知った気分になった。

「どんな絵になるのかしら。なんだかどきどきしてきちゃった」

「僕も」

僕は、ちょっとジョークを含めて軽く言い放った。場は急に緩やかな空気になった気がした。もしかしたら僕の絵は森潤子の予想より上出来だったのかも知れない。森潤子の気がほぐれたのは、もう一つ気掛かりだった絵の値段の件が解消出来たからなのだろう。僕はそんな風に思いながら次に言い出すつもりでいた幾つかの事を考えていた。すると、森潤子の方が先に言葉を繋いだ。

「それで、って言っては何なんですけど、絵を描いていただく方法っていうか、ちょっと家の事情があって。あ、まだお時間いいかしら」

「大丈夫。今日は他に用事無いから」

森潤子は、一呼吸すると気付いた様に背筋を伸ばした。そして、軽く唇を噛むと作り笑顔を僕に見せて口を開いた。

「中村さんの場合は、実際に庭を見ながら描くのかしら。それとも撮った写真を見て描くとか」

「写真ね。まあそういう描き方もあるけど、僕は実際のものを見て描くタイプかな」

「そうだとは思ってはいたんですけど。あの、うち、家に他に人がいて、」

僕は、はっとした。森潤子の左手の薬指にはリングは無い。これまで聞いていた話からすると同棲している男の影も感じられなかったのだ。もしかしたら自分は愚かな思い付きをしてしまったのかも知れない。そう思うと自分の顔が反射的に少し強張ったのが分かった。そして、何かを喋る事で僕は場を繕おうとした。

「やっぱり、人は一人じゃない方がいいと思う。うちの姉なんて世界を股にかけて居候してて、別れた男と今の男と三人で会ったりしちゃって。怖いもの無しだね、ああなると。大丈夫、その弟だから」

「お姉さんがいるの?」

「そう。姉が一人。今はもう結婚してて子供もいるけど」

「そう。どんなお姉さん?」

「どんななのかな。お互いにあまり互いの事話さないから分からないけど。多分、考え過ぎる人」

「きっと感受性が豊かなのね。だって、中村さんのお姉さんですもん」

「そう来るか」

「はい。そう思います」

森潤子は、なんとなくだが、僕の心の動揺を 見抜いている様な気がした。僕への冷静な視線と柔らかな口元の笑みがそう思わせたのだ。

「今家にいるのは同居人って言ったらいいかしら。祖父の友人の子とその娘なの。友人の子って言っても私よりずっと年上なんだけど。その娘は私より年下で。ちょっとしたご縁でうちで暮らしてるの」

「そう」

「なので、必然的にその二人とも顔を合わせなきゃならないと思うんだけど。何か負担になったらどうしようかと思って」

「何だそんな事。僕の方から申し出た話なんだし気にしないで」

僕は、そう軽やかに言い放った。実の所、出来れば直ぐにでもスケッチを始めたいと思っていた。そんな気持ちが逸って他人に会う会わないなんて事はどうでもいい事だと感じたのだ。僕は早いところ段取りを計画したかったのだ。季節は初秋になっている。冬が始まる前にある程度完成させたいと考えていた。

「秋になるとコスモスが咲くって言ってた」

「そうなの」

「いつ頃の庭を絵にしたいのかな」

と、僕が訊くと、森潤子は悩ましそうに少し黙り込んだ。

「クノッソスの庭はいつが一番美しいのかな」

と、僕は、呟いた。

「秋は黄金色に綺麗よ。春は天国の様だし。夏になると緑の生命力でいっぱいになるし。でも春は待ち遠しいわよね」

「じゃあ、秋のクノッソスだ」

僕は、言った。僕の心は、急に高揚し始めていた。

 

第9回へつづく ©

小説「時の朱色」第9回はこちら http://iris-wildrose.com/novel-when-it-is-vermilion-take9

< この小説はフィクションです >