小説 「時の朱色」第9回 タルト

* 「時の朱色」第一回はこちら↓

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十月に入ってすぐの土曜、僕は森潤子の家を訪れた。横浜駅から歩いて十五分程の所にある路地裏の閑静な住宅地だ。門のブザーを押すと、サンダルをつっかけた森潤子が笑顔で現れ小さな門を開けてくれた。

「ようこそ」

明るい笑顔がまるで花が咲いた様だ。森潤子にはこれまで三度会ったが、こんなにリラックスした笑顔は見た事が無い。そんな事を思いながら僕は森潤子が話しかけて来る、道は迷わなかったかとか、電車は混んでなかったかとか、そんなたわいない事に答えながら玄関までの石畳を歩き進めた。

「それにしても、こんな所に住宅地があるなんてちょっとびっくりだな」

「家の中を見てまた驚かないように。祖父時代のものだから古いものがいっぱいなの」

森潤子は、そう言って僕を家の中に招き入れた。家は木造の二階家だった。玄関を入ると下駄箱の上に白銀の世界の油絵が飾ってあり直ぐに目を引いた。

「趣のある家だね」

と、僕は、言った。

「友達が来ると、潤子の家怖いなんて言われるのよ。お化けが出そうだって」

「そうかな。僕はこういう家好きだけど」

壁に掛けてある大きな鏡のフレームは木彫りで出来ている花模様だ。花瓶が置かれた小さなチェストは恐らく年代物の輸入品だろう。一目見ただけで直ぐに分かるそれらの色合いは時間を沁み込ませた光と影の香が漂っている。廊下の右手がリビングになっていて僕はそこへ通された。

「散らかってるけど」

と、森潤子は僕にソファに座る様に言った。

三人掛けの緑色のベルベッドソファだ。テーブルの上には単行本が一冊置いてある。僕が知らない作家のものだった。横浜駅の地下街で買ったタルトを手渡すと、森潤子は喜んで受け取り、

「早速いただきたいけど、まずは主役の庭を見ていただいた方がいいかしら」

と、言った。

「そうだね」

「でもやっぱりちょっとその前に。飲み物だけ。何がいいかしら。喉乾いてるでしょ。コーヒー、紅茶、日本茶と、それから、レモン水があるわ。気は遣わないでね。いい作品を創るにはリラックスしないと」

そんな森潤子の言い方に僕はふと可笑しくなって笑いを漏らした。

「お気遣いありがとうございます。じゃ、レモン水を」

と、僕は答えた。

「かしこまりました」

森潤子は笑顔を見せてくるりと身を翻したと思うと、僕は全く気付かなかったのだが、そこには壁と同系色の天井まである大きな引き戸があってそれを突然開けたものだから僕はちょっと驚いて小さな声を上げてしまった。

リビングの西側の壁一面が引き戸になっていたのだ。

「あら、久美ちゃん、出かけたと思ってた」

そんな言葉につられてその声の先を見ると、そこはキッチンになっていて大きなテーブルに女性が一人座っていた。

「お邪魔かしら?」

「そんなことないけど、確か出かけるって」

「友達が急に都合が悪くなって取り止め」

「そう」

「お客様?」

「あ、お邪魔してます」

僕は猫背になったまま立ち上がり頭を下げた。

「お話しした、同居している娘さんの方」

「佐野久美子です」

と、その女性はあまり口を動かさずに低い声で名乗り少しだけ頭を下げてやはり少しだけ笑顔を見せた。

「中村櫂です。絵を描きに伺いました」

僕がそう言うと、佐野久美子はあまり興味が無さそうな様子で僕を見たが、それでもちょっと首を傾げるようにして微笑み、また何かに取り掛かり始めた。何かを書いているようだった。

「また塗り絵?」

と、森潤子が言った。

「そう、塗り絵」

佐野久美子の口調には独特なものがあり、僕はそれを聞いて美川憲一を思い出した。

「久美ちゃんも何か飲む?」

と、森潤子がその奥で言ったのが聞こえた。

「私はいいです。自分で作るので」

「そう」

キッチンは一瞬静かになり、僕は東側のガラス戸から何となく空を眺めた。外には小さな庭がありほうずきの鉢や植木が置いてあるのが見えた。その横は玄関の入口になるので裏庭はきっと逆の方向だろうと想像出来た。

「そう言えば、お茶が切れてたけど」

と、聞こえたのは森潤子ではなく佐野久美子の声だ。

「そうだった?」

「昨日言ったと思うけど。もう無いかもって」

「昨日は忙しくって、よく聞いてなかったかも」

二人の会話が耳に入って来る。

「お客さん来るなら確認しとかないと」

と、その低い声の語尾は僅かに伸びて何か言いたげに響いた。何処か耳に引っ掛かる言い方だと感じて僕はそれとなくキッチンの方を見たが、森潤子は家具の影になって姿が見えない。途切れた会話はそのままになり、その代わり、食器が触れる音がして僕は黙って森潤子が姿を現すのを待っていた。それでも他人の家に初めて来て何を眺めたらそれ程失礼ではないのかと思い、ついキッチンに目をやると、そんな瞬間に限って佐野久美子もちらと僕を見るのだった。タイミング悪く僕と目が合ったが、目が合うと佐野久美子はにっこりと笑顔を作って見せるので僕も反射的に笑顔を作って見せた。先程の挨拶の時にはまるで具の無いサンドイッチの様に味気無くぽっそりとした印象だったが、目が合うとまるでスイッチを入れた様にその化粧気の無い青白い顔がぱっと笑顔になるので僕は思わず腹話術の人形を思い出してしまった。明るめの茶色に染めた髪は肩まで伸びてストレートパーマをかけた様に真っ直ぐだ。一見学生の様にも見えるが、全身から漂う雰囲気にはちょっとした倦怠感がある。丸襟の水色がかった地味なブラウスはまるで六十年代の着こなしの様だと、時間にしたらほんの一分程の間に僕は佐野久美子からそんな印象を受けた。

「絵って、潤ちゃんの?」

佐野久美子が抑揚の無い声で言ったのが聞こえた。ふと顔を向けるとその横顔はテーブルの上から視線を離さずにいるので、聞いた相手は僕なのだろうか、それとも森潤子だろうかと僕は内心ちょっと困惑してしまったのだが、直ぐに、

「まさか。裏庭の絵よ。裏庭綺麗だから」

と、森潤子が答えたので僕はどうやら要らぬ気を遣ってしまったのだと安堵して足を組み替えたのだが、その拍子に履いていたスリッパが脱げて、目を向けた足元の近くに口紅がころがっているのに気付いた。

「流石潤ちゃん。裏庭を絵にするなんて凄い」

「裏庭綺麗よ。久美ちゃんはあまり見ないかも知れないけど」

「裏庭って、草ぼうぼうの野良猫がうろつき回ってるとこでしょ」

二人の会話はもう既に勿論と言っていい位に僕の気を引いていた。なので、その言葉尻に交じった笑いが少しだけ人の気を悪くする種の様に聞こえたのは気のせいでは無かったのだろう。

「中村さん、レモン水に蜂蜜を入れましょうか?」

キッチンの奥から森潤子が顔を見せた。僕が、要らない、と答えると、盆にレモン水を乗せた森潤子が戻って来た。僕達は手にレモン水のグラスを持って裏庭へと向かった。

裏庭はちょうどキッチンの裏側にある通路から出る事が出来た。ステンドグラスの小窓が付いた木製の扉を開けると石段があり、獣道の様な細い土の路を辿ると緑で覆われた庭へと続いていた。夏の名残りが消えた庭には、葉が落ち始めた木々と背の高い植物が繁っている。コスモスの花はまだらしい。森潤子は季節毎に咲き誇る花々の場所を指差しながら僕に説明してみせた。冷たいレモン水が口の中いっぱいに広がった。暖かな秋の陽が満ちていた。

「いい場所だね」

と、僕は、言った。

「そう?」

「こういう風景、好きだな」

「よかった」

森潤子はグラスを持ったまま両手を頭の上にぐんと伸ばすと深呼吸して空を仰いだ。

「少しの間、週末ここへ通ってもいいかな」

と、僕は、訊いた。

「お願いします」

森潤子は、そう嬉しそうに答えると、さ、タルト、と、おどけて見せた。

 

第10回へつづく ©

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< この小説はフィクションです > 登場する人物、設定は実在のものではありません。